国家安全法の制定と、それを語る熱量のない自分

国家安全法が制定された。様々な意見を求められるけれど、僕自身がこの問題についてあまり語る熱量がない理由。

香港に住む日本人としてこの話題に触れないわけにはいかない。

香港で国家安全法が可決、施行された。刑事罰の対象となるのは香港に住む香港人・外国人だけでなく香港外に住む外国人にも適用されるというからオドロキだ。外国はそもそも中国の法管轄にないので、「適用される」と言ってもどのような実効力があるのか不明なのだが。国家安全法で処罰されるのは

  • 国家の分裂
  • 国家の転覆
  • テロ
  • 外国組織と結託して危害を加える

ことを組織したり実施したり、その活動に資金を与えたりすることだ。チベットやウイグルなどたびたび人権が問題となっている地域の言動についても取り締まられるということになる。シンガポールも政府に対する批判的言動は取り締まられるが、香港の場合はシンガポールより広範に表現の自由が規制される上そのための懲罰が非常に重い(懲役刑プラス事案によっては中国大陸送で刑に処される)。

法案成立の背景やその内容については報道で知ることができるので、ここでは割愛する。今日のブログは経済の話でも金融の話でもない単なる自分語りなので、読んでも何の役にも立たないことは最初に断っておきたい。

私にこの問題を語る熱量がない理由

自由と民主。大事な価値観だ。中国と香港。一国二制度は危機にさらされている。国家安全法。香港の表現の自由は一体どうなるのか。

世界中が大騒ぎをしていることはもちろん知っている。しかし私にはこれらの問題を語る熱量はない。

親しい友人からもメールが来ていた。「3日返信がなかったので、何かあったのかと思った」と。何もあるわけないが、デモに参加でもしてたのかと思われたらしい。ていうか、アンタもしょっちゅう既読スルーするやんか。

香港の現状を説明したのだが逆に質問責めにあった。「今後、香港はどうなるの」から始まって「今後、どうするの」そして「今、この問題についてどう考えているの」といった聞かれ方をする。香港全体を語るというよりは、僕の思想信条を問われているようだ。

なんとなく「ほっといてくれ」という気分になるのだが、なぜ「ほっといてくれ」という気分になるのか最近まで分からなかった。単に面倒なことを考えたくないだけなのか、親中/反中の軸でラベリングされてしまうことが嫌なのか。

なんとなくこの問題を語る熱量がない理由が何なのか考えていたところ、どうやら以下の3つの理由が原因だと思い至った。

1. 香港に住まわせてもらっている私

この理由が一番大きい。2006年から香港に来た時、僕には何もなかった。カネもなければ香港での人脈もない。3ヶ月で切れる短期滞在ビザで来て、その間にあわよくば仕事を得ようとしていた無謀な若者にすぎなかった。香港人妻の助けもあって年収300万円くらいのファイナンシャル・アドバイザー見習いの仕事に滑り込めた。

日本人だし、英語もロクに話せないし、取り柄といえば若いだけ。そんな僕にどんな過酷な環境が待ち受けているのだろうと思ったが違った。

ほとんどの香港人は外国人を差別しないし、フェアに扱う。頑張れば称賛される。頑張らなければただ忘れられる。社内政治とはほとんど無縁の世界で僕は思う存分チャレンジできた。チャンスは探そうと思えばいくらでもあったし、仕事をする上で日本人であるから障害を感じたことは一度もない。都会なのに人は冷たくなく、仕事だけの付き合いではなくプライベートでも義理人情にあふれた香港人ばかりだった。西洋と東洋が混然となったカオスな街だがオープンであけすけな香港気っ風のおかげで仕事に思う存分打ち込めたし、精神的にもずいぶん助けられた。

日本の、あのじっとりまとわりつくような閉塞感もない。人も会社も法定速度内で安全運転するのではなく「まずは思い切りアクセル踏んでみて、ぶつかればまたコースを変えればいい」みたいな疾走感がある。

1年ほど生活すると、香港世界に受け入れられている実感があった。無謀な若者を受け入れ、生活を成り立たせ、選挙権まで与えてくれた懐の深い香港、そして香港人に感謝した。

それ以来私には香港に「住まわせてもらっている」という実感がある。これまで紆余曲折ありながらも生活が成り立っているのは私自身の器量などでは絶対ない。香港の「なんでもいったん受け入れる」「外から来た人間を排除しない」といった懐の深さがあったからこそだと思っている。

この「住まわせてもらっている」という実感は、香港に対してある種の敬意を抱かせる。バカ息子を育ててくれた親に対する尊敬のような。香港のことをどのような場合でも悪く言いたくないという私がいる。

2. 日本育ちである私

香港は多国籍国家であるのでいろいろな国籍の方とお話する機会がある。ヨーロッパ系の方と話していると、皆さん自国に誇りを持って国の成り立ちの歴史や他国から蹂躙されても自由、独立を勝ち取った話を酔っ払いながら嬉しそうにすることがある。

彼らが「自由」という言葉を発するとき、そこには多様な文化をお互いに尊重し、異質を排除しないための知恵がある。歴史に根ざした豊かな文脈がある。

翻って私。戦後生まれの民主主義にしろ、表現の自由にしろ欧州のように勝ち取ったことのない国、お上の言うことにはたてつかずに長いものには巻かれろスピリットな国で育った私のような人間が、自由と民主についてそれらしいことを言うこと自体がきまり悪く感じられる。言葉を重ねても、彼らと同じテーマを語っていないような気がする。自分事として捉えきれないので、言葉がうわ滑っている感じがするのだ。

3. 小市民である私

想像してみて欲しい。もしあなたの住んでいる街で暴動が起こり、火がつけられて信号機は破壊され、交通は完全にストップして会社に行けないばかりか外にも出られない。平穏な生活が完全に失われたとしたら。また例えば、地元で愛されるレストランを経営していた友人がデモのせいで客足が途絶え莫大な借金を背負い、それを苦に自殺してしまったとしたら。

「崇高なる自由と民主のために多少の犠牲は覚悟するべきだ」だと言われたら、納得できるだろうか。百歩譲って、自分の収入が減って生活を脅かされることや子供に十分な教育の機会を与えられないことを我慢できたとしても、それ以上に自由と民主のために譲ることのできるだろうか。良い意図で行う暴力と、悪い意図で行う暴力は見分けがつかないもんだ。

「譲ることができる」という方は立派だと思う。しかし私のような小市民は半径5メートルのことくらいしか考えられないのだ。

私たち外国人はまだいい。帰る国があるから。しかし香港人は、金持ちを除いて香港でしか生活の拠点がない人がほとんどなのだ。香港は物価が高く、しかもこの20年平均給与はほとんど上昇していないにも関わらず家賃はじめ生活費は高騰している。収入が途絶えた瞬間、路頭に迷う人が大勢いる。自由と民主は大事だが、今日明日の日銭のほうが大事な人たちだ。

「束の間の安息しか考えてない享楽主義者だ、先人の屍の上に成り立つ自由と民主を享受しておいてその代価を払わないとは何事か」と罵倒されたところで生活をしていかなきゃいけない我々にとっては崇高な理想に燃える方たちはそっちで勝手にやっとくれ、頼むから生活を乱さないでくれというのが本音だ。思想は贅沢品なので、今の私には手が届かない。

「自由と正義は何を犠牲にしてでも達成しなければならない」このことが圧迫感をもって伝えられる。それゆえ、「(デモを主導する)あなたがたの言っていることはよく分かる。でもこちとら生活がかかっているんだ」と声をあげることのできない空気がある。香港のサイレント・マジョリティは静かに耐えている。そのサイレント・マジョリティも自分の中で僕と日本のメディアで伝えられているような、中国共産党vs香港市民という単純な構図ではない。しかも、そのサイレント・マジョリティ自身も生活か理想か、何を大事にしていいか分からず引き裂かれているのが現状だろう。

皆が皆、高いレイヤーで考えることなんてできない。私も、多くのサイレント・マジョリティと同じで語りたくても語る言葉が見つからない一人である。

これからも多くを語らない

香港で政治的な意見を表明したいと思ったことはない。

香港に14年住んでおり選挙権もあるが、ほとんど行使はしていない。行使したとしても誰かにお願いされてなんとなく投票に行くくらいで、投票したその議員の主義主張を確認したことはない。日本の選挙には必ず投票するものの、香港ではノンポリだ。これは1つ目の「住まわせてもらっている」という意識が関係している。自分が好きで選択した結果として香港に住まわせてもらっているので、香港に対して文句をいうのは何となくおこがましい気がするのだ。

というわけで今回の国家安全法で私が投獄される可能性は低いと思う。返信が遅くなってもあまり心配しないで欲しい、と友人には伝えよう。

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